2009年12月14日月曜日

著眼(ちゃくがん)高ければ、 則ち理を見て岐(き)せず。

「著眼高ければ、足下の利に惑わず」 高所から見て志を立てれば、目先の損得に惑わされることは、ない。「迷い」は、自分の心が勝手に見た幻である。「一億円契約でうちの野球チームに来ないかと言われても志高ければ動じない不動の心」を言う。There is not that the will that you found from the high place changes by profit under the foot. Phone 053-439-0909
PS:著眼=着眼 則ち=即ち 理=利 とするともっと理解し易いのでは・・・

2009年12月13日日曜日

Reitoku(Morality of Budo) From 12th Butoku Cup Kenpo Team Competetion.「少にして学べば、壮にして惑わず」


私達が継承しなくてはならない。
武士道と礼徳。As for us, handing down it takes responsibility. Bushi Do & Reitoku
本大会の熱戦と盛り上がり、声援は、言うまでもない。
 着眼すべきは、礼徳であり、武徳である。拳法についてくる小さな子供たちまでも場外で履物を並べていた。サッカーの長沼健さんが日本サッカー協会の会長のとき「日本のサッカーも武道です。」と私に以前、愛媛県の新居浜でおっしゃった。長沼さんにも武士道・武道に対する憧れがあると感じた。日本の野球やバスケットボールで国歌斉唱のときガムを噛んでいたりバットを投げ捨てると「批判」が飛びまくる。その原点には、この写真にみられる「武道」が私達の血のなかにあるからだと考える。
 しかし、柔道の国士舘大学中島豸木教授が「どうしたら柔道や空手も拳法会のようになれる」と柔道大会の「後かたずけ」のときに漏らしたのも現実であり私達は、拳法会を媒介とし後進、青少年に継承しなくては、ならない。  「少にして学べば、壮にして惑わず!」 少年期に苦労をし文武の道を極めれば、大人になり迷うことは、ない!
 江戸時代の儒学者佐藤 一斎は、言四志録で「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。 壮にして学べば、則ち老いて衰えず。 老いて学べば、則ち死して朽ちず。」と説いている。
Small children arranged shoes. The players hold the mask aside. They do not neglect a thing. Small children support you in Seiza.

2009年12月4日金曜日

「不撓不屈Futo Fukutsu」の精神! 「不屈」とは!


Futo Fukutsu is the mind that nothing can dampen. However, the weight of the kick of the life is stronger than the weight of the kick of Kenpo. Ishida Mitsunari carried through justice for mind of Futo Fukutsu for the kick of the life.

「不撓不屈」(Futo Fukutsu]とは、強い意志をもって、どんな苦労や困難にもくじけないことを言います。私は、高校生の頃によく先生先輩に言われ、この言葉が脳裏に焼きつき、どんなに厳しい稽古もあたり前のように耐えぬけたものです。しかし、武道の「稽古の蹴りの重さ」など人生の「蹴りの重さ」に比べれば軽いものです。 その人生の蹴りの重さに耐え抜き「義」を「不屈」の信念で貫いたのが石田三成(Ishida Mitsunari)だと松平定知氏は、言っています。拳法会を通して「不屈の魂」と葉隠れ武士道にある「苦の道と楽な道」があるとき「苦の道を武士(サムライ)」は、選ぶべしの訓えを子ども達や世界に広めたいものです。